2003年3月21〜22日

 由緒正しき歴史の都・鎌倉は、観光スポットがいっぱい。一泊二日の行程では、とてもすべての名跡を回りきれるものではありません。なので今回は頼朝・義経兄弟にまつわる史蹟のみ厳選してめぐってきました。一日目は鶴岡八幡宮・頼朝の墓・銭洗弁天〜源氏山〜寿福寺など頼朝ゆかりの名所、二日目は義経が腰越状を書いたという満福寺をメインに…

一日目〜頼朝創建の鶴岡八幡宮ほかいろいろ

鶴岡八幡宮へ向かう段葛(だんかずら)の道
 JR鎌倉駅からロータリーを東に抜けると、由比ガ浜から鶴岡八幡宮までを一直線に結ぶ若宮大路の中継地点、「二の鳥居」に行き当たります。ここから北へ約600m、八幡宮まで段葛(通りの中央を盛り土して一段高くなっている)が続きます。道の両脇は桜並木、桜の季節にはみごとな眺めなのでしょうが、私が訪れたのは三月、まだまだ桜は固いつぼみのままでした。


鶴岡八幡宮・太鼓橋
 長い長い参道を歩いてようやく鶴岡八幡宮の入口、三の鳥居をくぐると、真正面に見えるのが太鼓橋。昔は渡れたそうですが今はごらんの通り通行止め。あぶないからかな?
 橋の両脇には、東側に源氏池、西側に平家池。源氏池には三つ、平家池には四つの小島がつくられています。何でも北条政子が、平家は四=死(滅びる)、源氏は三=産(栄える)として縁起をかついだのだとか。でも、当の北条氏は実は平氏系…。ともあれ夏にはそれぞれの池で紅白の蓮の花が楽しめるそう。鯉もたくさんいます。

鶴岡八幡宮・舞殿(下拝殿)
 さらに参道を進むとあでやかな朱塗りの建物、舞殿(正式名称・下拝殿)が。静御前頼朝の前で舞を奉じた場所とされており、毎年四月に開催される鎌倉まつりではここで披露される「静の舞」が目玉イベントになっています。が、鎌倉時代にこのような舞殿はまだなく、実際に静が舞ったのは若宮社殿の回廊だそう。ただ、かつてその回廊のあった場所が現在の舞殿のあたりだそうなので、一概にまちがいとも言えないでしょう。

鶴岡八幡宮・本宮(の楼門)
 舞殿の背後には、本宮へと続く急な石段。その左脇には、実朝暗殺時に公暁が身を隠していたといわれる有名な大銀杏がそびえています(写ってないけど)。石段を登って、さあ本宮へ・・・と思いきや、――何たることか!修復工事のため封鎖されている! …というわけで、石段の下からかろうじて見える楼門をむなしく見上げるよりほかない。鎌倉の直前まできて頼朝に会わせてもらえなかった義経の気持を、図らずも味わうことができました(苦笑)。

鶴岡八幡宮・白旗神社
 にぎやかな本宮周辺から東へ抜けると鬱蒼とした森に入ります。人影もまばらになり、涼しげな木立の中ひっそりと祀られているのが、この白旗神社。源頼家が父・頼朝の霊を弔うため建てた社(のち実朝も合祀された)で、社殿は明治30年に改修されたもの。黒い漆塗りのシックな外観です。

源頼朝墓
 鶴岡八幡宮の境内を出、路地を東に向けて歩いて、頼朝の墓をめざします。八幡宮からだいたい徒歩5分ほどの距離。途中、清泉小学校の脇に大倉幕府(頼朝時代の政治機関の中心部)跡の碑が立っているのでチェック。そこからさらに路地を北に向かってもう少し歩いたところ、大倉山の中腹に、頼朝の墓があります。高さ2メートルほどの多層塔で、いい感じに苔むして木陰のなかにたたずんでいます。その脇には、希義(頼朝の同母弟)の墓の土(土佐から運ばれてきたもの)が盛られています。兄弟ともに安らかに眠ってね、ということらしい。…同じ弟でも同腹と異腹ではまったく扱いが違うのね…と思うと、何だか九郎がカワイソウでたまりません。

 いったん駅方面に戻ります。にぎやかな小町通り(段葛の若宮大路の西側に平行する通り)を、人波に揉まれつつ、いろんなオミヤゲ物屋さんや食べ物屋さん(わずか600メートルほどの通りにひしめくことおよそ200店)をのぞきながら、たっぷり時間をかけて歩きます。

佐助稲荷神社(参道)
 鎌倉駅西口より、北西の方角へ路地を歩くことおよそ20分、佐助稲荷神社の参道が見えてきます。朱塗りの奉納鳥居と幟旗が延々と続くさまは壮観。参道をのぼりつめれば、木々に囲まれた静かな境内にたどり着きます。
 頼朝が伊豆・蛭ヶ小島に蟄居していた頃、その夢枕に鎌倉の神霊が立って平家追討を促し、のち鎌倉入りした頼朝はそれを感謝しこの地に社を建立したといわれています。頼朝の若き頃の呼び名が「佐殿(すけどの)」で、その彼を助けたことから「佐助」の名がついたのだそう。祭神は宇賀福神。次にご紹介する銭洗弁財天と同じ神様なので、両社セットでお参りするのがのぞましい。


銭洗弁財天(宇賀福神社)
 佐助稲荷神社から、坂をしばらく登り続けると、今度は白木の奉納鳥居のトンネル。そこをくぐり終えると、先ほどの佐助稲荷の山深い静かな雰囲気とは打って変わって、にぎやか!ごっつい人・人・人!オミヤゲ物屋さんや茶店まである。境内の岩窟の中には霊水が湧き出ており、この水でお金を洗うと倍になるという。わぁーみんな洗ってるー万札洗ってるー!…あまりのにぎわいにびびってしまい、私は遠巻きに見守るばかり。それもそのはず、この日は巳の日で特にご利益がのぞめる日。頼朝が鎌倉入りして五年目の巳年(1185年)巳月巳日巳の刻に、またしても頼朝の夢枕に神が立ち、この地に湧き出た水で神仏を供養すれば天下泰平になる、とお告げになったのがこの神社の縁起といわれています。


源氏山公園・頼朝像
 それにしても鎌倉はなんとリスの多いこと。佐助稲荷から銭洗弁財天、さらに源氏山へと続く緑ゆたかな坂道を歩きつつ、ふと道沿いの木立に目をやると、必ずといっていいほどリスの姿が目にとまる。もとは江ノ島の動物園にいたタイワンリスが諸事情で放たれて、一挙に増えてしまったらしい。帰化動物は強いなあ…。
 源氏山公園は、かつて源義家が出陣の際に源氏の白旗を立てて勝利を祈念したという山で、旗立山、白旗山とも呼ばれます。公園の中心部には高さ2メートルの威風堂々たる頼朝像が。男前です。彼にしてはめずらしい鎧姿。こうしてみると本当に武家の棟梁という感じ(イヤ本当に武家の棟梁なんですが)。

化粧坂(けわいざか)切通し
 山に囲まれた鎌倉と外部を結ぶ道には、防御のため、切通しと呼ばれる狭隘な要所がいくつもつくられていました。特に有名な七つの切通しを「鎌倉七切通し」「鎌倉七口」といい、そのうちのひとつ、「化粧坂切通し」と呼ばれるものが、源氏山公園から裏手に抜ける道の途中にあります(頼朝像の近く)。奇岩怪石の連なる九十九折の険しい坂道。私は途中まで降りて引き返してしまった…時間が押していたから。(本音)降りたあとまた登らねばならないのがツライから。根性ナシめ。

寿福寺(じゅふくじ)
 寿福寺は、正治二年(1200年)に北条政子がかつて源義朝(頼朝らの父)の邸宅があったこの場所に、夫・頼朝の供養のため建立したもの。源氏山公園からじかに行けます。道があります。まともな遊歩道は途中で消えますが大丈夫、とにかく案内表示を信じて進むべし。熊笹生い茂るケモノ道(のようなところ)をガサゴソ歩き、いきなり出現する墓地にためらいながらも突っ切ればそこがもう寿福寺の墓地(本堂裏手)。この墓地には高浜虚子や大佛次郎といった著名人の墓、また北条政子と実朝の墓といわれるやぐら(岩倉)もあります。
 寿福寺は、その山門から外門(写真)をつなぐ参道の石畳の美しさが有名です。

由比ガ浜
 駅まで戻り、若宮大路を南へ向かえばほどなく海。遊歩道が整備されたレジャー向けの浜辺です。若者達は波乗りに興じ、家族連れはキャッチボールを楽しみ、犬はそこここを駆けまわる。かつてこの浜で、静御前の身ごもっていた義経の子が生まれ落ちてすぐ捨てられ殺されたのですが…そんないにしえの悲話を微塵も感じさせぬほど、今の由比ガ浜は大にぎわいでございました。

二日目〜義経ゆかりの満福寺など
小動神社(こゆるぎじんじゃ)
 オモチャのようにかわいい江ノ電に乗って20分、腰越駅を下車。駅の東側に腰越状ゆかりの満福寺がありますが、まずはこちら、腰越港のそばにある小動神社にお参りします。海にせり出した小山のような岬の上に鎮座するこの社は、源氏の武将佐々木盛綱が勧請したもの。小動の名の由来は、風もないのに境内の松の枝がゆれて妙なる音色を奏でていたという伝説から。それにしても赤いほっかむりの狛犬のキュートなことったら。
 境内の見晴台からは、すぐ近くの江ノ島からはるか沖の三浦半島まで、雄大に広がる相模湾が臨めます。※ちなみにこの見晴台、あの太宰治が最初の自殺未遂をしたところ…)

満福寺(まんぷくじ)・石段
 江ノ電の踏み切りごしに急な石段が待っています。石段を登りつめたところに満福寺の山門が見えています。

満福寺・源義経公慰霊碑と弁慶の手玉石
 境内の中央、よく目立つ場所に源義経の慰霊碑があります。この慰霊碑はじめ、このお寺の義経関連の史蹟の文字はすべて血のような紅の色。ナゼ? 義経が腰越状をしたためつつ悲しみのあまり流したという「血の涙」を彷彿とさせます。慰霊碑のそばには、ちょっとご愛嬌という感じで弁慶ゆかりの史蹟。写真右下にあるのが「弁慶手玉石」。石なんぞ手玉にとって遊んでる場合だったのか、弁慶よ。

満福寺・弁慶の腰掛石
 慰霊碑の左脇には弁慶の腰掛石。ちなみに弁慶関係の史蹟の文字は、義経の紅の色に対してすべて緑で統一されている。この腰掛石、大の男が座るにはちょっとカワイイ大きさかも。そういえば和歌山の田辺市(弁慶生誕の地)にもあったなあ。日本全国にいったいいくつあるんだ弁慶の腰掛石。

満福寺・硯の池
 本堂裏の墓地へ抜けるトンネル脇に、硯の池(義経の依頼を受けた弁慶が腰越状を書くために水を汲んだとされる池)があります。一見、単なる溝のようなので見落としそう。さらには、この時ちょうど工事中のためポールが張り巡らされていたので、どんなアングルから撮ってもおそろしく殺風景な写真になってしまうのでした。ただでさえこちとら写真オンチなのに。トホホ…

満福寺・義経公手洗の井戸
 本堂のちょうど裏手に、義経公が手を洗ったとされる「手洗の井戸」が。のぞきこむと、小さい金魚がちょっと心もとなげにヒラヒラ泳いでおりました。

満福寺・鎌倉彫の襖絵
 満福寺本堂には義経の腰越状(下書き)の版木が保管されているほか、義経の生涯を繊細な鎌倉彫で描き出した襖絵が有名、義経ファンは必ず観るべし!拝観志納であがらせてもらえます。
 腰越状をしたためる義経、義経を慕い舞う静、雪の中を落ちゆく主従、弁慶の立往生など、義経物語の特に悲劇的な、そしてロマンチックな場面が襖の裏表三十二面に描かれています。憂いを秘めた義経の何と気品に満ちて美しいこと!思わずかぶりつきで見入ってしまいます。義経シリーズ以外にも、庫裡や天井などに鎌倉彫の装飾がほどこされ、それらの一部は絵葉書にもなっています。
 左の写真は、義経シリーズで唯一絵葉書に入っていない襖絵。義経と静のせつない別れの場面です。

甘縄神明社(あまなわしんめいしゃ)
 腰越をあとにして鎌倉方面に江ノ電で5駅戻って長谷駅で下車、めざすは甘縄神明社。鎌倉に幕府が開かれるよりずっと前からある古社で、頼朝がよく参拝していたといいます。この近くには頼朝の股肱の郎党・籐九郎盛長の住居があったそう。
 長谷といえば長谷観音の長谷寺鎌倉大仏の高徳院が有名。長谷寺には頼朝が42歳の時厄除けのため建立した阿弥陀堂があるので、時間があればそちらもチェック。私もお参りしましたが縁日のようなえらいにぎわい。気おされてあわあわしていたため写真撮るのを忘れました…(しっかりしろよ)。
 それに比べて、甘縄神明社はメジャーな観光名所から少し離れた住宅街を抜けた高台にあるためか、私が訪ねた際には他に誰もおらず、往時のおごそかな雰囲気に思いを馳せることができました。

オミヤゲ情報
鎌倉マトリョーシカ(5体セット\5,000)/Palette
 「るるぶ‘03鎌倉を歩こう」等各メディアで紹介されている最強にカワイイマトリョーシカ。大きいほうから、頼朝・義経・静御前・弁慶・牛若丸。義経がいるのにさらに牛若丸もいる。義経ファンには文句なしの人選です。でっかい頼朝にちっちゃい義経、可憐な静、親子のような弁慶と牛若丸、何だか力関係を表したような順番もなかなかニクイではありませんか。
 Palette(パレット)はマトリョーシカはじめロシア雑貨を専門に扱うお店。鎌倉(源頼朝)マトリョーシカはひとつひとつ手作りのため、購入には前もって在庫確認の電話を入れておくのがカシコイ(郵送可)。このほかにも¥15,000のさらに大きいサイズもあります。
 お店の場所は鎌倉駅から徒歩5分、ただし住宅街の中なのでちょっと見つけにくいかも。エントランスにかわいいマトリョーシカがたくさん並んでいるのが目印です。若宮大路沿いにも「パレット小町店」があります。
0467-22-9483/金・土・日祝のみの営業(小町店は毎日営業)/営業時間10〜17時

満福寺オミヤゲ・絵葉書
 本堂全景の写真、本堂内の鎌倉彫の装飾、義経物語の襖絵など、12枚セット。(暗くて見にくい写真でごめんなさい)

満福寺オミヤゲ・腰越状
 満福寺所蔵の腰越状(下書きの版木)を印刷、縮小コピーしたもの。200円。解説と口語訳のパンフ付き。※マトリョーシカは付いてません(笑)

自作マップ
一日目(鶴岡八幡宮・佐助稲荷など) 二日目(腰越周辺・甘縄神明宮など)
 鎌倉は、何度でも訪れたくなる魅力的な土地でした。次回からはもっとじっくり腰をすえて観てまわりたいものです。季節も選んで行くのがいいかも。鎌倉の見どころは、何といっても数多の名刹と季節折々の花の取り合わせですからね。(でも混んでるだろうな〜…)
 また、観光客むけに定期遊覧バスも運行しています。よりとも号(半日コース\2,250)よしつね号(半日コース\2,250)しずか号(一日コース\4,400)。頼朝よりも義経よりも静が一番値が張るのがちょっと笑えます。
 鎌倉からもうちょっと足を伸ばした藤沢市には、義経の首塚をお祭りしている神社や史蹟もあるのですが今回は行けませんでした。
 まだまだ行っていないところ、行きたいところがたくさんある。いずれ再びかならずや、「いざ鎌倉」するぞ!

07年10月二度目の鎌倉旅行(波乱万丈編)はこちら…→→→

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